


1996年11月。チェルヌイシュ・ターニャ、14歳。
ウクライナの自宅にて母親と / photo by Ryuichi Hirokawa
■ すべての始まり
チェルノブイリ原発事故について知ったのは、15歳のときでした。新聞で被災地でのボランティア募集の記事を見つけた私は即、事務局に問い合わせ、両親の説得を試みました。しかし、受験勉強もせず海外に行くことはできませんでした。
同年、深夜のニュース番組の8分間の特集をみました。事故当日、たまたまチェルノブイリに近い町を祖母と訪問していたターニャという女の子が発病し、死に至るまでのドキュメンタリーでした。私は、彼女の短い生涯を思い、声を上げて泣きました。
■ カメラとの出逢い
それからチェルノブイリを思い出すことは特にないまま、高校生になりました。不思議な縁でマニュアルカメラを手にし、気がついたらシャッターを切り続けていました。高校を卒業後、語学の専門学校に通いながら、独学でセルフポートレイトを撮りはじめ、溜まった作品で個展を開くようになりました。そして、オーストラリアに留学し、1年ほど過ごしていました。
■ 自分がどうあるべきか
他民族で構成されるオーストラリアで世界各国の友人と生活するうち、文化や生活習慣、宗教が異なることこそが自然なことだと思うようになりました。
自分とカメラとその価値観。これらをどう今後の生き方に結び付けていけばいいのか。まずは「メディア」を理解しようとマスコミ会社でアルバイトをしたり、被写体との関係をカメラを通じて見つけるため、アジアで一人旅をしたり。その矢先「フォトジャーナリズム」という言葉と出逢いました。それは、フォトジャーナリスト短期入門講座の広告でした。
■ ターニャとの再会
講座の会場で机に座り、息を呑みました。机上の資料に、私が15歳のときにチェルノブイリを初めて知った記事と、ターニャについて書かれた記事があったのです。その講座の発起人が、ターニャを取材し日本に伝えたフォトジャーナリスト、広河隆一氏であり、当時問い合わせた事務局は、氏が立ち上げたNGOだったということを、そのとき初めて知りました。そして、授業中、広河氏がたまたまターニャの映像を教材として使用しました。7年という時を経てターニャと再び出逢ったその瞬間、そのことのもつ意味を思い、気がついたら授業中、息ができないほど号泣しました。
広河氏が偶然に被災地で出会った少女、ターニャ。私は、15歳の時に彼女と出会い、22歳で再会しました。これは、彼女の命が残した奇跡だと、私は信じています。彼女の命を、たくさんの子どもたちの命に繋ぐ、その架け橋になりたいと心から願っています。